【読書】カフカ『変身(毒虫)』と中島敦『山月記(虎)』【雑記】
こんばんは。コマツです。
以前カフカの『変身』を読んでいた時にふらっと思ったことでも書いてみようかと。
虫になったグレーゴルと発狂する李徴
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1952/07/28
- メディア: 文庫
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『変身』を読んだのは遥かに前の話なのですが、読み終わった直後に思ったのが、「あれ?グレーゴルと李徴似てね?」ってことだったんです。
李徴というのは中島敦の『山月記』に登場する、自分の願望と社会の軋轢の間でがんじがらめになり、自身の人生すべてを投げ出して虎になった男のことです。
グレーゴルの場合は「会社に行きたくない!会社に行きたくないよぉ~。くそ、借金さえなければこんな会社とっととやめてやるのに。」
李徴の場合は「人と関わるのが怖いでござる。もうずっと一人で部屋にこもって好きな詩を好きなように書いていたいでござる。」
といった具合でしょうか。そちらにもいえるのはなんとなくどっちも社会にでるのが嫌だってこと。怖かったりしんどかったりめんどくさかったりして、だけど人間のままだとそれを強いられてしまうから、もういっそ人間やめたい。と、そういった願望の具現化なんじゃないかなと思います。
そうなったら最後、引きこもりの毒虫になって背中にりんごをめり込ませたまま惨めに死ぬか、社会に反発して裏で泣きながら人を食らう虎になるか。
カフカの『変身』はその引きこもりの情景、完全に虫になりきってしまう過程が物凄くリアルに描かれていて、恐ろしく救いようがない。
『山月記』に関しては青春を追い求めるばかりに虎になって発狂する李徴の野心と自尊心の砕け散るさまを見ることができる。こちらもこちらで救いようがない。
高校の時現国の先生が涙ながらに李徴の発狂の原因について講義していたけれど、もしかしたら先生も実は小説家か何かになりたくて、でも慣れなかったんじゃないか。そんなことを思った記憶があります。大人になりきれなかった大人、青春を求め続けるには年をとり過ぎたもの。それが李徴だったのかもしれません。
青春を求め続けて発狂するのは辛いけど、お腹に白いつぶつぶの湧いた毒虫にだけはなりたくないですね。
おやすみなさい。
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